使うものを自分たちで作るという感覚や、自分の表すものが形になる喜びをみんな当たり前に持っていたと思います

使うものを自分たちで作るという感覚や、自分の表すものが形になる喜びをみんな当たり前に持っていたと思います

10期卒業生 脇元克也さん 前編

脇元克也さん
現在9年生のクラスアドバイザー、そして体育の教員としてシュタイナー学園高等部の教壇に立っている脇元克也先生。実はご自身も学園の卒業生で、シュタイナー教育を12年間受けた後、大学で体育教育について学び、今度は教える立場となって学園に戻ってこられました。生徒として、教員として、ふたつの立場からシュタイナー教育を見つめてきた脇元先生に、お話を伺いました。


シュタイナー教育との出会いについて教えて下さい

もともと2人の兄がシュタイナー学園の前身である東京シュタイナーシューレに通っていたので、自然なこととして自分もシューレに入学しました。三鷹にあったシューレ時代は、まだ校舎も小さく、校庭もなかったので、体育の授業は近くの公園のグラウンドで行っていました。学園の特徴的な授業である米づくりでは埼玉の方に通ったり、家づくりでは桧原村に泊まり込みで行ったりしていました。当時、私のクラスは多いときで15人くらい。運動遊びが大好きな活発な子どもでした。休み時間に上の学年のお兄さんやお姉さんたちと遊んだりと、年の離れた人たちとの交流が自然とあるのが楽しかったですね。今思えば先生方にたくさん迷惑もかけてきました。時には休み時間のうちから教室のロッカーに隠れて授業に来た先生を困らせたり、床下や天井裏に潜り込んで探検などもしていました。教室の中から扉をロックして先生が入れないようにしたときに、窓から担任の先生が怒鳴り込んできたのは今でもよく覚えています。

脇元先生の1つ上の学年から中等部ができたと聞きました

それまで初等部までしかなかったので、卒業後はみんな公立や私立の中学に進学していました。兄2人も三鷹にあった私立中学に進学しました。1学年上の9期生が中学に上がるタイミングで、中等部を開校できることになり、ちょうど私が高校(10年生)に上がる時には、シューレは学校法人シュタイナー学園として藤野に移転することになりました。両親にはシュタイナーの高校に行っても他の高校に行ってもいいんだよ、と言われ、シュタイナーの高等部に通うことを決めました。その時はまだ名倉校舎の初・中等部しか学校法人化されず、高等部はNPO法人のフリースクールとしてスタートしました。藤野駅のそばにあった商店の2階を木の壁や木の床に改装した小さな部屋で学びました。

まだ小さな規模の学校法人化されていないシュタイナー学園の高校になぜ通おうと思ったのでしょう?

小学校の高学年くらいからスポーツの習い事をする中でシュタイナー学校以外の子どもたちとの関わりも持っていて、それこそゲームやテレビの話に入っていけなかったりと、シュタイナー教育を窮屈に感じる瞬間もありました。大きくなるとそういうことに反発し、隠れてやっていたこともありましたが、それでも先生方や両親は自分のために言ってくれている、信念があって言ってくれている、というのを子どもながらにどこかで感じていたのかもしれません。深い繋がりのある友達関係もありましたし、自分にとって安心できる居場所はここだな、と思っていました。

今では学園が運営する「シュタイナー保育園とねりここどもの家」の園舎として使われている、名倉校舎に隣接するドーム校舎は、高等部の校舎として当時の生徒だった脇元先生たちが作られたのですよね。

11年生になった春から冬にかけては、ずっと校舎建築をしていました。専門家の指導の下、教員や保護者、生徒たちで作りました。木材を切ったり組み立てたり、高所作業もして、今思い返せば大変な作業でしたが、当時は楽しく取り組んでいました。初等部の頃からの米づくりや家づくりや、いくつもの劇を作り上げてきた経験から、使うものを自分たちで作るという感覚や、自分の表すものが形になる喜びをみんな当たり前に持っていたと思います。なので自分たちの使う校舎を自分たちで作っていくのは本当に楽しいことでしたね。

専門家の指導の下、教員や保護者、生徒たちで作りあげたドーム校舎


当時はまだ高等部は学校法人化されていませんでしたが、授業内容は今の高等部とはちがったのでしょうか?

エポック授業など主要教科の学びは大きく変わることはありません。ただNPOのフリースクールで公的な高校卒業資格が得られないので、授業とは別に高卒認定資格所得のための勉強が必要でした。また今の高等部で行われている福祉実習の基盤となるような、病院での実習や作業所にお手伝いに通ったりする実習もありました。卒業プロジェクトや12年劇、卒業オイリュトミー公演などもありました。私は11年生の頃にはスポーツに関係した仕事がしたい、体育の教員になりたいという気持ちを持つようになりました。

どうして体育の教員になりたいと思ったのでしょうか?

きっかけは当時、学園で体育を教えてくれていた先生です。厳しい部分も持ち合わせた方でしたが、スキーや山登りに連れて行ってくださったり、いろいろな経験をさせてくださいました。今思えば『遊びのプロ/遊ばせるプロ』であったのだなと思います。その先生への憧れがあり、学園卒業後は体育大学に進学したのです。

シュタイナー学園で過ごした時間を「安心して過ごせる居場所」だと感じていたという脇元先生。後編では大学で教員資格を取った後、教員として再び学園に戻ってきた今だからこそ見えること、感じることをお聞きしたいと思います。


ライター:中村暁野