誰もが対等で意見を言える、一人一人にその権利がある、
ということが当たり前にありました

誰もが対等で意見を言える、一人一人にその権利がある、ということが当たり前にありました

6期生 松本陵磨さん(前編)

松本陵磨さん
現在広島県竹原市にある久野島産業株式会社の代表取締役を務めつつ、広島大学の客員講師として英語とフランス語の講義を担当している松本陵磨さんは、シュタイナー学園第6期生。シュタイナー学園の前身である東京シュタイナーシューレを卒業後、イギリスのシュタイナー学校に通い、自らの意思で帰国・日本の公立高校から広島大学、上智大学、パリ=ソルボンヌ大学と進学し、広い世界に触れてこられました。前編では、シュタイナー教育に触れる中で松本さんが学んだこと、影響を受けたことを伺いました。

シュタイナー教育との出会いはなんだったのでしょうか?

元々祖父が病気を食事療法で治そうとしていた時に、看護師として祖父についたのが私の母でした。母は若い頃からマクロビオティックといった食事療法について学んでいて、それらを学ぶ一環でシュタイナーに出会ったそうです。その後シュタイナー教育について学び、いつか子どもができたらシュタイナー教育を受けさせたいと思っていたそうです。祖父の療養を通して父と母は出会い結婚したのですが、当時日本にシュタイナー学校はなく、母は『もし子どもが生まれて就学の年までにシュタイナー学校ができなければドイツに行く』と言ったそうです。さすがに父は困って『日本国内だったらどこへでも』と言ったらしいのですが、私が生まれた年にシュタイナー学園の前身となる東京シュタイナーシューレができ、通うことになりました。父は広島で高校教師をしていたので、週末に東京に来る、というような生活でした。

小学校時代の学びで印象に残っていることはありますか?

当時人数が少なかったので3.4学年と5.6学年は合同で、上の学年と一緒のクラスでした。クラスメイトは兄弟のような存在でしたね。水彩など、ものづくりの授業が大好きでしたが、3原色のにじみ絵(※)のような、この年齢まではこの色しか使わない、というシュタイナー独自の理論に当時は『なぜだろう?』と反発のようなものも感じていました。でもそこで、この色を混ぜるとこうなる、というような感覚や考察が生まれ、今思うと意味があったことなのかなと思います。

中学はイギリスのシュタイナー学校へ進まれたのですよね。

当時シュタイナーシューレは初等部までしかなかったので、創立50年以上というイギリスの歴史あるシュタイナー学校に進みました。当初は英語がわからなかったのですが、運動ができたり、数学ができたり、そういったできる部分を見ようとしてくれ、周囲が自分を認め受け入れてくれていると感じられました。日本のシュタイナー学校もそうだったのですが、イギリスのシュタイナー学校も、誰もが対等で意見を言える、一人一人にその権利がある、ということが当たり前にありました。自分の中でもそれは当たり前の感覚だったので、日本の公立高校に進学した時には驚くことも多くありました。

どうして日本の公立学校に行こうと決めたのですか?

将来は教育に関わる仕事をしたいと思っていたんです。だったら一度は母国の教育に触れておくべきだと思い、決めました。高校に通って最初に思ったことは、すごく簡単だな、ということだったんです。テストがあって決められた答えがある。用意された道順をたどってゴールすればいい。それはシュタイナー学校でエポックノートを作りながら学ぶより全然簡単に感じたんです。それでいい成績が取れたので最初は面白かったんですが、単調なので飽きる。よくこんなことみんな何年もやれるな、と思ってしまいました。

勉強以外でギャップを感じることはありましたか?

理不尽だな、納得できないな、ということは、それまでのように校長先生や教育委員会にも直訴していました。その都度『日本ではこうなんだよ』という話を聞き、納得は出来ないけれど理解したり、だったらおかしいことを変えてやろうと生徒会に入ったり。それでも日本の、おかしいと思うことがあっても『まあまあまあ…』というような感覚には馴染めずにいましたね。それは今も変わらず、ときどき感覚の差からくる衝突は起きますね(笑)。

子ども時代から深い考察力を持っていた松本さん。どんな時でも自分を信じられることは、恐れず新たな環境に飛び込んでいける力になっていたのかもしれません。後編では希望大学への進学を経て、現在携わっている教育への思い、代表取締役を務める会社の経営についても伺います。

※赤、青、黄の3色の絵の具を使い、画用紙を水で十分に濡らし、そこに色を落とし描く水彩画の技法。シュタイナー学校の芸術教育において水彩は主要な教科の一つ

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ライター:中村暁野